スペシャル

和助編 『秘めやかなる蕾』 Girl's Style7月号掲載SS 作:恵莉ひなこ(エレファンテ)

帳簿付けが一段落して外を見ると、東の空が白み始めていた。
ひとつ伸びをし、気分転換にと廊下に出る。やるべき事はまだ山のようにあるが、なんだか頭が重たい。

(……眠れねぇ日が続くってのも、少し考えもんだな……)

欠伸を噛み殺し、嘆息する。
ここ最近は実稼働に加え、雑務が増えてきたため睡眠時間の短い日々が続いていた。

(どっかで休みでも取れりゃいいんだが……なかなかそうもいかねぇしな)

「和助さん」

不意に名前を呼ばれて振り返る。
歩み寄ってきたのは、新造姿に着飾った七緒だ。こんな明け方近くに会うのは珍しい。

「まだ仕事か?」
「ちょうど最後の大尽がお帰りになったところです」
「そうか……遅くまでご苦労だったな」
「いえ……あの、和助さん……」

遠慮がちに俺の名を呼ぶ。

「なんだ?」
「…………」

けれど、七緒はそれ以上何も言わなかった。
代わりに、微かに眉根を寄せてじっと俺を見つめてくる。

――和助さんが、心配です。

言葉にはしなくとも、七緒の表情がそう物語っているのが容易にわかる。

(……そんな目に見えてわかるほど、俺は疲れた顔をしていたのか)

ひとつ苦笑を漏らし、俺は踵を返す。
最後の大尽が帰ったのなら、見世じまいの指示を出しに行かなければならなかった。

……が。

そう思った瞬間、足元がふらつく。

「……っ……」
「! 和助さんっ……!」

途端に、焦った声が飛んできて身体を支えられた。

「大丈夫ですか?」

やけに不安そうに言われ、返答に困る。眠くてよろけただけだと言っても、信じるかどうか……。

「…………」
「和助さん……?」

(……どうせ、もう見世じまいだ。少し構ってやるか……)

僅かな沈黙の中、ふと芽生えた悪戯心に俺は思わずニヤリとする。

「お医者様を呼びましょうか?」
「いや、医者はいい。今必要なのは……」

もったいぶるように言葉を途切れさせ、七緒の手を掴んで歩き出す。
背後から感じる動揺した気配が妙におかしかった。

* * *

適当に空いている座敷を見つけ、七緒を押し込んでその場に座るよう言いつける。
戸惑いながらも素直に従った七緒の膝に、俺はおもむろに寝そべり頭を乗せた。

「わ、和助さん……っ!?」

見上げた七緒の頬が、みるみるうちに真っ赤に染まる。

(……っくく、本当変わらねぇな……)

こうして密着することはこれまでも何度かあったが、その度に七緒は赤面し視線を泳がせる。
今では万珠屋でもそこそこ人気のある新造だが、とてもそうとは思えない生娘っぷりだ。

(初なところがいいってのも、わからなくはねぇが……俺としちゃ、もっと艶っぽい方が好みなんだがな……)
(うちに来てから結構経つのに、艶気が出るどころか宝良なんかといる時は、むしろガキっぽく見えるしな……)

そんなことを考えながら下から七緒の顔を見上げる。
目が合うと七緒は一瞬戸惑った表情を浮かべ、すぐに目を逸らす。
……ほらな、やっぱりこういうところは……と思いながら、何の気もなしにそのまま七緒の顔を見つめる。

(顔立ちは綺麗に整ってるんだよな……)

普段接している分にはそうそう気づかないが、こうして改めて見ると、睫毛も長い。
唇も程よく赤く染まり、思わず触れたくなるほどには弾力がある。

(……ふーん、案外……)

思わずまじまじと見ていると、再び七緒の視線が戻り、不思議そうに首を傾げた。
その瞬間、はっと我に返り思わず苦笑する。

(……俺、今何を……)

今度は俺の方から目を逸らし、短く息をつく。
すると――……何を思ったのか、七緒の手がふわりと俺の髪を撫でた。

「……!」

予想外の動きだっただけに、一瞬思考が止まる。
けれど、同時にふっと身体の力が抜けていくのに気付いた。

(……こいつ、無意識か?)

他の大尽にも同じようにしてるのかと、一瞬野暮な疑問が浮かぶが口には出さずに飲み込む。
そのまま、ゆっくりと頭を撫でる手の流れに任せて目を閉じる。
そうすると不思議なことに、今まで感じていた疲労感が薄らいでいく。

「……」 「あの……和助さん……?」
「いい……そのまま……」

俺の名を呼ぶその声は、なんの抵抗もなく自然に身体に浸透していく。

(……なんか、妙に眠気を誘うな……)

驚くほど静かな気持ちで、俺は目を閉じたまま意識を七緒の手の感覚に集中させた。

* * *

「――……?」

目覚めた俺の視界に飛び込んできたのは、部屋の天井ではなく七緒の寝顔だった。
僅かに身じろぎすると、俺の頭に乗っていた手がぱたりと畳に落ちる。

「……いつの間に……」

恐らく、俺が眠ってから半刻と経っていないはずだが、その間に七緒も膝枕をしたまま眠ってしまったようだ。

「……ったく……無防備な奴だな」

苦笑と共に体を起こし、壁にもたれかかる七緒に声をかける。

「おい。このまま寝こけてんなら、襲うぞ」

つい、いつもの癖でそんな軽口が口を衝いて出る。
しかし、当然のように返事はない。
七緒はなんの警戒心も持たない顔で、安らかな寝息を立て続けている。

「…………」

何故だかそれが妙に気に障り、そのまま細い肩を押した。
七緒の体がゆっくりと畳に横たわる。髪が僅かに乱れるが、それでもこいつは目を覚まさない。

(ここまでしといて、何もしねぇってのもな……)

相変わらずすうすうと眠る七緒の顔へ少しずつ距離を詰める。

(どうせ減るものでもねぇし、口づけくらいしとくか……)

例え艶気がなくガキのようでも、女には違いない。
そう思い、そのまま躊躇いもなく唇を合わせようとした――その時。
七緒の口端が僅かに持ち上がり、微かな声が漏れた。

「……和助、さん……」
「……っ!」

ぎくりと、再び心臓が跳ねた。
まるで、心の奥に住む見知らぬ何者かが、自分の行いを咎めているような……
そんな後ろめたい気持ちに支配され、気付けば俺は体を離していた。

「……ちっ」

短く舌打ちをし、すっかり興をそがれた俺はそのまま七緒に声を掛ける。

「おい、起きろ」
「ん…………え、和助さん……!? あ、あれ……私、どうして……」

体を揺すってやると、七緒がゆっくりと目を開ける。
何が恥ずかしいのか、俺を見た頬がまた朱に染まった。

(こんなんで照れてるようじゃ、やっぱガキだな)

ため息をつき、立ち上がる。
そのまま七緒に手を差し出すと、一瞬迷うように視線を彷徨わせながらも、ゆっくりと手を重ねてきた。
その様子に自然と笑みが浮かぶ。

「そういう仕草は、悪くねぇんだよな」
「え……? 何がですか?」
「……なんでもねぇよ。それより、そろそろ戻るぞ」
「あ……はい」

座敷を出ると、七緒は小走りについてきて隣に並んだ。その横顔を盗み見て、俺は自問する。
――何故、さっき七緒に手を出すのをやめたのか?

(急に名前を呼ばれて、毒気を抜かれただけ……か)

答えは意外とすんなり出た。
だから、続けて湧き上がってきた後の感情を、俺は気のせいだと思うことにした。
遊びで手を出していい女じゃない。こいつは、大事にすべき女だ……そう、一瞬でも思ってしまったことなど。

(思ったよりも疲れがたまってんのか……やっぱり少し寝る時間増やすか)

本気の女を作っても厄介事が増えるだけだ。 今はそんな暇なんて少しもねぇ。
こんな感情は俺には必要ない。

(……第一、こいつは見世のもんだ。)

……――全部、気のせいだ。

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